生活の制約の為に人は自由を代償にする
「自由」という言葉を聞けば人はどんな想像をするだろうか?自由とは自分の思い通りに行動ができ何にも縛られず生きていける事だろうか?確かにそうかもしれないと私は思う。しかし、本当の上で自由である人というのはどれくらいいるだろう?ほとんどいないのではないかと考える。
むしろ「私は自由だよ」という人こそ自由ではないのだ。それよりも拘束の鎖につながれている事にも気付いてはいない。自由である事は簡単に見えて何よりも難しい事なのだから。この世界で生きていく中で本当の自由なんて言うものは存在しない事に人は気付いているだろうか?何をするにも制限がついてきて、その中を生きている。
毎日、いや、生まれた時から当たり前として行動してきたことが人の思考を鈍らせ自由の意味を取り違えているのではないだろうか。何の制約も持たない事が自由の本当の意味ならば決して自由な人など存在はしないだろう。
それは当たり前の中で暮らしてきた見えない拘束が存在する。それは人が生活をする中で必要不可欠なものであったに違いない。しかし、それは人の自由と引き換えとして存在したものなのだ。規則などもそういった意味では自由を奪うものであり、衣服を買ったりするにもそれなりにお金が存在する事で自由度が軽減されている。
これらは全て私たちが生まれる前から存在していた事柄であって、それが当たり前だと信じてきた事項だ。しかし、本来はもとより存在していなかったもの。人がより良く暮らしやすくするための拘束を用いて作りあげた理である。さて、自由が欲しいという人はこの理の全てを解いても本当の自由が欲しいだろうか?
それとも理の中での自由を探すだろうか。もっとも理を解いた世の中は混沌とし、混迷の中に落ちてしまうだろうが。理を解くとはそういうことだ。きっと人はそれを望まないだろう。理の中を生きていくことを選ぶだろうと私は思う。今、生きていく上での快適な生活を送るには規則や理を解く事は難しいだろう。
それが当たり前だと思って育った私たちにはなおの事。今の生活を保持することそれは自由を犠牲にして手に入れた偽りの自由だ。しかし、それ以上の自由を求める事はしないでおこう。命の期限が切れた時に本当の自由を知ることになるのだから。
肉体からも、この世の理からも制約を受けず、縛るものなど何もない自由。魂の解放を経て本来の自由を得られるのだから。それまでは、人は自由という代償を払わなければいけない。